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大阪地方裁判所 昭和53年(わ)2349号 決定

主文

本件各請求をいずれも却下する。

理由

一  本件請求にかかる各書面は、いずれも大阪府警察本部刑事部鑑識課警察犬係警部補箕輪正治が昭和五三年六月二日警察犬訓練士宇田川善則をして嘱託警察犬ビエーネ号を使役し本件事故現場に遺留されたスキー帽六点の臭気と被告人の臭気とが一致するかどうかを確認するために行わせた臭気選別実験の経過と結果とを記載した書面及び右実験中にその状況をメモ的に記載した書面であり、検察官は、右書面は実質上の作成者が公判廷で作成の真正を供述しているから刑事訴訟法三二一条四項ないし三項によって証拠能力があると主張する。

二  そこで検討するに、《証拠省略》を総合すると次のことが認められる。すなわち、

1  臭気、嗅覚についてはさまざまな研究がされているが、臭気の実体、構造、分類、嗅覚のメカニズム、特に臭いの質の識別について科学的に未解明な部分が多く、臭気の構成物質はガスクロマトグラフによっても分析することができず、したがって、人間の体臭の個人差を科学機器によって分析できない現状にある。

2  警察犬の訓練士の実務経験から人の体臭には個人差があり不変であると思われているが、人の指紋のように個人によって千差万別であり同一のものがあり得ないという科学的根拠はなく、一卵性双生児の一方の臭いを原臭にした臭気選別実験で、犬が双生児の他方の感臭物品を選別持来したことがあるという報告例からすると、犬が識別できないほど類似した体臭があることも推認できる。

3  また、犬の嗅覚は一般に鋭敏であるといわれており、その閾値によって人間の嗅覚と比較すると数千倍(エチルメルカプタン)から一億倍(酢酸)も優れているという実験結果があるものの、犬がどのようにして人の体臭を識別するのか、特に、複数の人の体臭が付着した物品についてもその中の特定の人の臭気をかぎ分けるといわれるが、それがなぜ可能なのかについての科学的裏付けはないし、類似した臭気についてどの程度の識別能力があるかも明らかではない。

4  特に犬の嗅覚は生物である以上個体差があり、臭気選別に使用できる犬は、専門的な知識、技能、経験を有する訓練士が嗅覚の特に優れていると思われる犬について生後間もなくから専門的訓練を施し、その訓練過程の中で更に選別をした少数の犬に限られ、そのようにして訓練を終えた犬で、かつ警察が毎年実施している臭気選別テストに合格し嘱託警察犬の資格を得た犬(以下警察犬という)についても常時訓練をして嗅覚を鍛えなければならず、さらに、その犬を実際の臭気選別に使役できる者は、当初から訓練を施して来た訓練士に限られ、他の訓練士ではよい結果が得られない。

5  しかも警察犬の臭気選別の能力は、その犬の体調、季節、時間、気温、湿度、選別場所の雰囲気、さらに犬を使役する訓練士の体調等によって影響を受け一定しないのみならず、臭気選別が可能かどうかを確かめるための予備テストをすることもあるが、予備テストをしたとしても実際の臭気選別に使用できるかどうかは一にかかってその犬の訓練に当たって来た訓練士の長年の経験に基づく判断によるほかはなく、客観的基準はない。

6  警察犬の臭気選別の結果は、一〇〇パーセント正確であるということはできず、一般的にも、また、各警察犬ごとにも統計的に一定の誤答率があるとみられるが、それがどの程度の率であるかを客観的に明らかにするに足りる資料は存在しない。

三  また本件臭気選別実験について検討しても、《証拠省略》によれば、本件の実験は訓練士である宇田川善則が自ら訓練に当たって来た警察犬ビエーネ号を使役し、遺留物件のスキー帽六点の移行臭付着の布片を対照臭とし、被告人が使用していた枕カバーの移行臭付着の布片を原臭として各二回ずつ合計一二回の臭気選別をし、その際、第三、四回目の青色スキー帽の臭気について選別持来したので、更にもう一回右と同じ方法で青色スキー帽の移行臭について臭気選別をし、その後はスキー帽六点自体を選別台に並べ枕カバー自体を原臭として二回の臭気選別をした結果、いずれも青色スキー帽あるいはその移行臭付着の布片を選別持来したというのであるが、もともと右ビエーネ号は専門家によって臭気選別の訓練を受け、警察の選別テストにも合格して嘱託警察犬の資格を得ていたとはいうものの、これまでの各種競技会における入賞歴は単独臭のみを追求する足跡追求部門に限られていたこと、また数回にわたり実際の事件で臭気選別に使役されているが選別の結果の正確性についての具体的資料の集積がされていないこと、ビエーネ号についても臭気選別の能力は常に一定しているものではなく体調、季節、時間、周囲の状況、選別物件によって違いがあること、本件の臭気選別については前記宇田川がビエーネ号について臭気選別が可能であると判断したものであり、その調子を確かめるための予備テストも実施していないことの各事実が認められるのであって、右の事実関係に徴すると本件のビエーネ号による臭気選別の具体的な結果についてその正確性を判断するに足りるだけの客観的な資料は見出し難い。

四  次に本件臭気選別の対照物件である前記スキー帽六点の保管状況について検討すると、《証拠省略》によれば、右スキー帽六点はいずれも一般の証拠物件と同じようにポリ袋と紙袋によって二重に包装され現場で押収された他の遺留物件とともにダンボール箱に入れロッカー内に収納されていたというのであるが、右ポリ袋の口がどのようにして密閉されていたか明確ではないのみならず、右各物件の保管担当者である吉岡久幸も本件臭気選別以前である五月一九日から同月二一日にかけて右各物件の写真撮影をするまでその保管状態を確認していないし、写真撮影の際もスキー帽自体については各別に取扱ったものの台紙は同じ紙を使用し、着用した手袋も日常使用していた綿製のものを用いたに過ぎず、これまで臭気選別に全くかかわったことのない同人が果たして臭気選別を念頭においてスキー帽等の保管に当たったかどうか極めて疑わしいこと、また同月一九日に行なわれた大月章子に対する検察官の事情聴取の際に右スキー帽が同女に示されているのであるが、その際臭気の保持についてどのような配慮が加えられていたか明らかにされていないこと、加えて本件では被告人方から帽子、ズボン等が押収されており、右物件も前記ロッカー内に収納保管されていた事実があるから前記スキー帽に被告人の臭気が付着する可能性も十分考えられることの各事情が認められ、右の各事情に照らせば、本件の臭気選別に用いられた各スキー帽の保管状況は臭気選別に使用するに不適当な状態にあったといわざるを得ない。

五  結論

以上、要するに、一般的に犬の嗅覚が優れ、臭気選別能力が経験上相当高いものであることはいえても、人の体臭に犬が識別しうるだけの個人差があるかどうか定かではなく、犬が同一臭であるかどうかを識別する過程、判断の根拠を科学的に明確にする裏付けがないので、犬の臭気選別実験の結果の信用性、信頼性を判断するには当該警察犬の臭気選別実験の正解率がどの程度あるかの実験データ等の資料が不可欠であり、実験当日の警察犬の体調等に欠陥がないかどうかが明らかにされなければならないにもかかわらず、本件では、ビエーネ号の臭気選別実験の正解率などその能力を知るに足りる客観的資料がないし、臭気選別実験当日におけるビエーネ号の臭気選別能力に欠陥がないかどうかを確かめるための予備テストはなく、担当の訓練士宇田川の長年の経験による判断だけで実験に臨んでいるものであって、以上のような状況下で実施された本件臭気選別実験については、一般的に証拠能力を付与するに足りるだけの正確性、信頼性があるか否か定かではないし、たとえ証拠として採用したとしてもその証明力を適正に評価することは著しく困難であり、加えて、前記のように現場遺留品の保管に問題があるという事情も併せ考えると、本件の臭気選別の経過と結果ないし実験状況をメモ的に記載した本件の各書面に刑事訴訟法三二一条四項又は三項によって証拠能力を付与することはその記載内容を検討するまでもなく相当でないといわざるを得ない。

よって、検察官の主張は理由がないから本件各請求をいずれも却下することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 山田敬二郎 裁判官 浅香紀久雄 村田鋭治)

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